忍者(にんじゃ)とは、鎌倉時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕えたり仕えなかったりして諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺などを仕事としていたとされる、個人ないし集団の名称。その名は日本国内にとどまらず、世界的にもよく知られている。
領主に仕えずに戦毎に雇われる傭兵のような存在。伊賀衆甲賀衆のような土豪集団もあれば、乱波透破のようなただのごろつき集団もある。戦には足軽として参加し、夜討ち朝駆けといった奇襲撹乱を得意とした。伊賀甲賀においては荘園時代から悪党がはびこり、それが後世忍者と呼ばれる伊賀衆甲賀衆になる。
忍者は上忍、中忍、下忍に身分が分かれているように一部で信じられているが、実際の万川集海の記述は上忍とは「忍びの上手」なる者である。中世にはどの村落も軍事力を備えていたが(江戸時代に武装を必要としない安定を見る(→兵農分離)までは、あらゆる階層が武装していた)、その軍事力は村落の自衛に用いられることもあり、また村落外の勢力に傭兵のように貸す場合もあった。外から連れてきた子供を訓練することもあり、伊賀では脱走者(いわゆる抜け忍)は探し出して処罰したと言う。
戦国時代結城氏のように領内で草、夜業の作戦に普段からプロの悪党や忍びが集団で雇われていているところもあれば、合戦前に忍びを募集するところもあった。例えば武蔵松山城主の上田憲定の合戦前の兵募集制札には「夜走、夜盗はいくらでも欲しい」「侠気のある剛健なもの」「前科者、借財ある者みな帳消しにする」とあり、陰徳太平記では「足軽など山賊盗賊でも嫌わず召し集める」とある。後に出世した大名の中で彼らの助力を受けていないものは一人もいないだろう。
『萬川集海』によると「忍芸はほぼ盗賊の術に近し」とあり、忍術には「陰忍」と「陽忍」があるとされる。陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、一般的に想像される忍者とはこの時の姿である。対して陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。
戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的だったが、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という報道における俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」)「透破(すっぱ、とっぱ)」「突破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」などがある。
女中や小間使いとして潜入して諜報活動を行っていた女性の忍者も存在した。忍装束を着て映像作品や漫画作品などで活躍するような通俗的なイメージは、近代の創作とされる。史実として武田信玄に仕えた歩き巫女の集団が有名。「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するがこれとは異なる。 名称については「くノ一(くのいち)」といい、“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現を語源とする説明が一般的である。その他陰陽道における房術(女性が男性をその気にさせるテクニック)である「九一ノ道」からきたとする説など、いくつかの説がある。
間諜の歴史は、人類の歴史とともに古く遡ることができる。その発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などもある。『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として用いたと伝えられる地域もあるようだが、日本書紀等にそのような記載はない。
忍者・忍術は、源平時代以後に日本で発祥したものである。忍者、忍術は日本国内各地に分かれ、いくつかの集団を形成していた。文献上にその名が見られる忍術流派は71流を数え、伝書及び資料の確認される流派は31流とする説がある。中でも甲賀や伊賀を本拠としていた忍者集団は有名である。これらの場所には多数の忍者屋敷があり、日々の訓練が行われていたと考えられる。
甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園で木材の供給地だったため守護や地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠した。各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、「忍術」が自然発生したのではないかと考えられている。
伊賀・甲賀・雑賀、さらには柳生等の紀伊半島は、天武天皇が壬申の乱の直前に住んでいた場所であり、後醍醐天皇の南朝がおかれるなど、特殊な霊地が多い。
文献上の初見は1487年の室町幕府将軍足利義尚率いる幕府軍対六角氏・甲賀・伊賀連合軍の戦いといわれる。特に伊賀忍者は、古代、琵琶湖が伊賀国内に存在し、そのため土質が農業向きではなく特殊技能を体得し国外へと移動して忍者集団を形成したものという。天正13年羽柴秀吉によって甲賀の侍衆は改易処分となり甲賀は秀吉の家臣中村一氏の支配となる。これにより甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落していく。
なお、戦国時代には、伊賀・甲賀組や紀州根来衆の他に甲斐武田氏の透破、越後上杉氏の鳶加当他、相模北条氏の風魔党、奥州伊達氏の黒脛巾組、加賀本願寺の修験、伊勢長島、出雲尼子氏の鉢屋一党など各地方諸文献に草等の忍者らしき記載が有る。
現代の忍者さんたちも様々な方面で、活躍しているわけですが…。
トラブルのようなNGもあり、生の演出だからこそ、ありうる笑いがあるわけで…。
…とても、楽しかったです。(笑)
そして、横島所長からのメッセージです。
…ども、横島です。
今回、誕生日のメッセージなど、ありがとうございます。
今後とも飛躍して頑張りますので、よろしくお願い申し上げます。

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